休職1年くらいの自分が、自己分析のために何となくまとめてみた。
私は2015年2月に抑うつ状態*1と診断されて、それから休職を続けている。
原因は、2014年4月頃(入社3年目)からの、仕事内容にある。
仕事は無線機器の受信部の、新方式の研究だった。
仕事は、私以外に勤務10年超で役職につく一歩手前の、Aさんと一緒に進める、ということだった。
プロジェクト発足当初はAさんは助っ人として別チームにいたため、合流は2014年の夏ごろになった。
私にとって、Aさんは苦手な部類の方だった。
理由は、はっきりとものを言い、いやな事を自分の内に留めておかないためだ。
私はこのタイプの方を、この文章を書いている今でも苦手としている。
私は他人からの指摘などを、おそらく正面から受け止めすぎる性格であるため、
話していて苛烈な言葉がまず襲いかかってくる、このタイプの方と話すときは、無意識的に自分を縛って、抑え込むことで、自分を守りながら接してしまう。
そのため会話の終わった後は、すごく疲れる。また話したいとは到底思えないほどに。
休職して1年経った今も、正直言って私はこのタイプの方との関わり方が分からない。
私の過去の苦しい経験には、いつもこのタイプとの関わりがあった。
話は私の過去にさかのぼる。
私は、中高の学生時代、いじめを受けていた。
少なくとも、今は、私はいじめられていたと感じる。
内容としては、お金を渡したり、他の学生の前で何かするよう強要されて、恥をかかされたりなど。
いじめられていた当時は、いじめられてるという自覚はなかった。
友達がちょっと強い言葉で自分に言ってきている程度だと、感じていた。
普通のことだと。我慢すればいいと。
つまり無意識的に自分を抑え込んでいた。
実家も、私にとって安全な場所ではなかった。
親は、私に期待し、いろいろな面で投資してくれた。それは感謝すべきことだ。
だが、いまは私の趣味と胸を張って言えるもの、
つまりイラストを見たり描いたりや、プラモデルの製作や、
PCを使った作業(当時はHTMLでのホームページ作成や、ツールを用いたゲーム作成など)に関しては、ものすごく否定されてきた。
面白いと思った漫画を不健全だと勝手に捨てられたり、イラストを気持ち悪いと言われたり、
PCの作業中はあからさまに不機嫌になったり、プラモデルの撮影を鼻で笑われたり。
趣味というカンバスで、自分を自由に表現した結果を否定されるのは、ものすごく屈辱だった。
実家にいる間は、とにかく自分を出さないようにした。
喜怒哀楽を見せない様にして、あんたらとは距離を置いているんだということをアピールした。
距離を置くことで、自分の表現物の否定に対するダメージを軽減できることに気付いたからだろう。
まあ今思えば、私のそんな対応が、親の私への否定をよりエスカレートさせていたのも事実なのかもしれない。
弟も、そんな親と同調していたので、
私を含めて4人いる実家では完全に浮いた存在となり、自分でもその道を選んでいた。
ただ、大学進学と同時に上京したので、この地獄からは物理的に解放されることができた。
弟は、美大に進み、いまはデザイナーを目指して留学している。
私にとっては、表現物で勝負できる世界に身を置いている弟は、
必然的に比較する身近な存在で、いまは遠い憧れとなってしまった。
自分も、実家にいるときに、
もっと自己表現すればよかったのか?
自分の生き方が間違っていたのか?
今でも自分と比較して思う。
弟に罪はない。けれど私は弟と対応するとき、いつもどこかで誰かが自分を見てあざけ笑うような、
劣等感と向き合わなければならないのが現実だ。
私はこのように、苦手なタイプと接する機会があったのに、
常に自分を抑圧することで自分を守る道を選んできた。それ以外の対処を知らなかった。
立ち向かっていって、知るべきだったのだろうか。
仕事に話は戻る。
やがてAさんと合流して仕事を進めることとなったが、
私は当時自信にあふれており、私に強い口調で指示を言ってくるAさんを、苦手なタイプだと無意識に判断し、拒絶して、
仕事を進めていこうと思っていた。
大学や、入社後にも困難な課題は乗り越えてきたし、自分は現在進行形で進化している。絶対にできると。
それが若い自分に期待されている、このプロジェクトにおける役割だと、
そう考えるくらいに自信家だった。
それから半年ほどたち、私の担当の仕事は破たんした。
理由はありすぎて、どうすればよかったか、いまこうしてまとめることもできない。
まず、私が提出する結果はすべてAさんに蹴られてしまった。
毎日のように結果を提出しては、容赦なく論破されて席に戻り、またやり直して・・・という日々だった。
自分の説明する能力や、知識が足りないためだと思い、
社内でも2、3割ほどしかとってない?無線機の資格*2も勉強しまくって取得した。
しかし何も変わらない。
Aさんとの関係がうまくいっていないためか、という考えにもたどり着いた。
そこで仕事以外の場所で勝負してみようと思い、飲みというかたちで、距離を縮めようとする方法も試した。
しかし何も変わらない。
2014年の忘年会で、Aさんを含め、プロジェクトリーダーのBさんと飲む機会があり、
そこで、Bさんからは「Aに嫌われることだけはするなよ」と言われた。
これだけやって、まだ足りないのかと吐き気のするような絶望と、
視界が遠のいてく感じを味わったのは今でも思い出せる。
その日は溺れるほど飲んで、どうやって帰ったか記憶がない。
2015年の年明けごろには、
仕事の無い日も涙が止まらなかった。
仕事の成果とかお金とかより、Aさんに認めてもらいたいということだけしか頭になかった。
自分にとってできうる、あらゆる人にアドバイスを求めた。
会社の同期、先輩たち、大学の友人、自分にとって頼りづらかった親、弟にも。
仕事への集中力がなくなり、リーダーであるBさんに、
プロジェクトから外して欲しいと相談した。
「周りへの迷惑を考えてくれ」
「そういう態度では、どこにいっても同じ目に合う」
「部署移動となると、最低でも1年後」
と言われた。
まあ、そうか。という気持ちだった。
ここで言われた、『そういう態度』というのが、何を意味しているのか、当時も分からなかったし、今も書いていて正直分からない。
この時期は、なんだか自分をラジコンで操作して毎日会社に行ってるような感じだった。
自分を俯瞰して操作していて、視界とかも自分のものではないような。
朝起きて、あー体動かねーわ、受信機の調子わるいな、みたいな。
2015年2月、完全に万策尽きた。
生まれて初めて精神科を受診し、「抑うつ状態」の診断書をそのまま提出。
私が小学生のころ、おじさんがうつになり、そのまま亡くなった事があって、家族の中や、私の中でも精神病はタブーなものだった。
絶対になりたくないと思ってやってきた。
でも、最後はあっけないものだった。
そして休職に入った。
以上、休職にいたるまでの経緯と、自分の封印してきた無意識について述べた。
これを書いたのは、自分の「無意識」が怖くなってきたためだ。
あなたは自我防衛機制が強いタイプ、
という当たってるのかもよく分からないような性格診断的なものを受けて、
自分は不快感とかを表に出さずに抑圧しがちなタイプで、周りとの協調性がない、
とか書いてあって、
自分を無意識的に抑圧する、そんな処世術がなじみすぎているのかもと、だんだん恐怖にかられてきた。
自分の見て感じているあらゆるものが、
この無意識によって歪められて認知している。
こいつ、協調性がないな、
とか苦手な人を見て思っていた自分が、
一番協調性のない人間なんじゃないか?
この無意識に気付いたのも大きな一歩だと思う。
が、不安感が拭い去れないのも事実。
それで一心不乱にこの文章を書いた。
ここまで見ていただき、本当にありがとうございました。