休職約一年から社会復帰を目指す。

うつからの社会復帰を目標として、考えたことをまとめて、アウトプットしていきたいです。

ASD親と子育ての困りごと

自分はASDと診断を受けました。

子供がおり、一番上は4歳です。

今日はASD特性、というか自分の性格面と子育ての相性面で悩んでいることを書きたいと思います。

子供に良質な体験をさせてあげられない

人混みが苦手な特性

自分は人混みが苦手です。

またイラストやオフラインゲームなど、人と関わりの少ないインドア趣味が多いです。

このため、自分が主体になって子供をイベントなどに連れて行くのにかなりのエネルギーがいります。

これらに抵抗のない親御さんに対して、自分は親として自分の子供に良質な体験をさせてあげられてないのではという悩みがあります。

4年間育児していてそれが頭の片隅にあり、これからも拭えないと思うと結構気が重いです。

運転できない

また、自分は車も持ってないしペーパードライバーです。

なので例えば人混みを避けて車でのんびり移動とかも現状できず、自分のインドア趣味に拍車をかけています。

2024年あたりに生活が落ち着いたらペーパー講習を受けたいと思ってます。ただ運転は怖くて嫌いで気が重い。

子供に聞いてみると、割と現状を楽しんでいるようです。

ただキャンプに行きたい、とかは言ってます。

車無しキャンプは調べてみると非常にハードルが高く、実現できてないです。

イベント全部が嫌いなわけではない

イベント全てが嫌いなわけではないです。

人が多くても、自分(と家族)のペースで行動できたり秩序だったものであったりすれば楽しめます。

友達に誘われるのも好きです。

まとめ

ほんとは家にこもってたいと思ってしまう自分に対して、親として駄目だという気持ちがあります。

同じ人はいるのでしょうか。

自分の考えとしては、子供がどう考えてるかがまず重要だと思います。

その上で、人それぞれ自分のペースを重視すべきだと思います。外に出るのが苦しいなら出なくていいじゃんって。

書いてて思いましたが、自分のポリシー(自分のペースで生きるのがいい)と、べき思考(親は子供に良質な体験をさせるべき)が対立してます。

僕たちはどう生きるか、考える日々です。

復職後に飲み会が苦手になった話

suibariです。

2回目の復職してから飲み会がかなり苦手になってしまいました。

飲み会と言っても2、3人とか少人数ならマシなのですが、大人数のものが特に苦手です。

理由はいくつかあります。

 

ASDという診断がついたこと

今回の休職で自分にASDという診断がつきました。

ASDは情報処理が不得意で、多人数での会話を苦手とする人が多いです。

今までは飲み会に積極的に参加して周りと馴染まなきゃという思いで、エネルギーや経験をフル活用してその場に何とか適応(当社比)していました。終わった後激しく消耗することが多かったです。

でもそこに診断がついたことで、医学的に苦手意識が証明された形になりました。

これまで大人数では話についていけず愛想笑いばかりして、いつかついていける様になると自分なりに工夫してきたけど、それは特性上頑張って何とかなるものではなかった。

そういう考えに至ってからは、何だか飲み会が疲れるばかりで楽しくなくなってしまいました。

最近はもっぱら一人飲みばかりです。

 

人の二面性が苦手

今回の休職に入ってから、人の二面性が顕になるシーンが苦手になりました。

例えば、表では何も言わないのに、裏で陰口を言っているとか、酔っ払って性格が変わるとかです。

飲み会はそのオンパレードなので必然的に苦手になりました。

これも原因はASDの情報処理の苦手さ起因ではないかと休職中に医師に言われた気がします。ただ、昔は割と平気だったのでそこが解せないです。ASD特性なら生まれてからずっとついてまわるはずなので。

 

家に帰った方が有意義

単純に、家に帰って子供と遊んだ方が有意義だと気づきました。

子持ち既婚者でも色んな人がいると思いますが、自分は今は早く帰って子供と触れ合いたいです。

 

終わりに

飲み会が苦手になって色んな誘いをスルーしてる形になってるので、このままでいいのか不安です。

がむしゃらに飲み会に参加してた頃が懐かしい。

また飲み会を楽しめる日は来るのだろうか。

発達障害と診断されました

7年ぶりに記事を書きます。

社会復帰を目指すsuibariです。

 

7年間の経緯

まず、この7年間で何があったかについて説明します。

簡単なタイムラインを作成してみました。追って説明します。

2012~2022タイムライン

結論から言うと、本ブログのタイトルにもある「社会復帰」についてはまだ途中だと思っています。一応就労はできていますが…。

前回までの記事の通り、私は2015年に1回目の休職をし、1年の休職を経て、2016年に復職しました。

復職してからは仕事・プライベートともに大変順調でした。仕事もうまくいき、結婚もしました。今風に言えば、上振れ状態です。

2年間その状態が続き、私は社会復帰できたんだという強い自信を得ました。転職活動を始めてみました。もともと収入面に不安があるなど転職願望はあったので、自分の立ち位置を知る意味で始めました。

するとトントン拍子で転職が決まりました。2018年末、転職しました。

しかし中途入社してからはまた壁にぶつかりました。

同僚・上司とのコミュニケーションがうまくいかない、仕事がうまくいかない、など前回の休職時にもあった原因が噴出してきました。子供が生まれており育児にもストレスを感じてしまうという新しい問題もありました。

もがきあがいてみたのですが、結果として、2021年に人生2度目の休職をしてしまうこととなりました。

2回目の休職でもリワークに通所し、特に自分の状態管理(セルフケア)、周りの手助けを借りる(サポート資源)を徹底的に対策しました。

そうして再び1年間の休職を経て、2022年に復職し、現在に至ります。

復職してからはリワークでの対策もあって順調です。

ただ、復職明け1年も経っていない状態で、自分が社会復帰したとは気分的に言えず、冒頭にて途中という表現をしました。

他の方と同様に、10年間くらい休職せず働けて、はじめて社会復帰したといえるのかなと漠然と思っています。

 

発達障害診断

2回目の休職期間中に、専門機関の受診を経て、発達障害と診断されました。

ASD自閉症スペクトラム障害です。

受診の経緯としては、私は30歳前後で2度も休職しており、自分の中の根本的な問題を探したかったためです。受診にあたってはWAISという知能検査の実施や学生時代の通知表などを提出して医師に判断してもらいました。

 

ASDとは?

一般的に、ASDは以下の特性を持つとされています。

  • 情報の同時処理が苦手(特に相手の機微な変化を察したり、自分の考えを伝えることが苦手)
  • こだわりが強い(融通が利かなかったり、非合理的な思考になったりしがち)

よく言われる注意点として、ASDスペクトラムであり、二元論で決まるものではありません。こういった傾向は誰しも多かれ少なかれ備えているものですが、それが強く見られた人にASDと診断がつきます。

なので、ASDであるかどうかということより、その人がどのような特性を持っているかということが重要視されます。

 

ASDに対する対処

自分の特性を列挙してみます。

  • 情報の同時処理が苦手のため、飲み会など大人数(5人以上くらい)での会話が苦手。誰が何を喋っていたか、自分が何を言うべきか、など訳が分からなくなる。
  • 会話上の暗黙のルール・期待が苦手。社交辞令を真に受けたり、面白く返すべき時に返せなかったりする。
  • 言葉より映像で考える傾向が強い。そのため、自分の考えをうまく伝えられない。
  • 頭の多動性が強い。相手が長話をしているときに別のことを考えて集中できなくなってしまったり、自分が話している最中に別のことが気になって離せなくなってしまったりする。
  • 自分の感情に気が付きにくい。自分がどう思っているか分からないのに他人の感情には敏感のため我慢をしがち。
  • 自分の体調に気が付きにくい。こだわりの強さと相まって、過集中と消耗につながる。
  • 助けを求めにくい。サポートを得なさい、と言われれば動けるが、言われないとずっと一人で抱え込んでしまう。
  • 自由な環境が苦手。在宅勤務など自制が必要なシーンで自制できない。
  • 正解がはっきりしないものが苦手。学生の課題、資格試験などでは結果を出せるが、仕事でうまく結果を出せない。
  • 規範に対するこだわりが強い。こうすべき、と言われたことに対して柔軟に考えることができない。前述の在宅勤務時など、自制できなかったことで必要以上に自分を責めたりする。

まとめると、対人コミュニケーションと仕事(主にリーダー業務)を苦手とします。

私は復職にあたって、自分にどのような特性があるのか、どのように自分で対策するか、自分で対策できなければどのようなサポートが必要かについて、会社にレポートを提出しました。

現在のところ、順調にやれていると思います。会社には感謝しかありません。

 

最後に

今回初めて自分がASDということを家族・会社以外の不特定多数に公表する形になります。

自分がこんなに特性を持っていても生きてこれたのは、友人の存在や、社会、今の会社のサポートがあるからだと思います。本当に感謝しています。

何か質問や感想があればコメントお願いします。

復職の面談に備えて、リワークについてまとめる。

私は現在休職中で、リワークに通っている。

 

リワークとは、うつや適応障害双極性障害などで休職・退職された方が、復職・転職に向けて、生活リズム改善や、再発防止に向けたグループワークなどを行う施設。

www.smilenavigator.jp

 

以前の日記では、デイケアと書いた。正確には「リワークプログラムの、時間帯はデイケア(朝~夕方)での参加」とという感じなのかな。

 

上記リンクにも記載されている通り、大きく分けて、国の独立行政法人がやっているものと、病院がやっているものがある。

私が行っているのは後者の、病院が実施しているほう。

 

リワークに参加するまで

2月に休職して、通い始めたのが11月頃。

それまでは、現在通っているところを含めて、3つのリワーク施設を見学した。

それぞれ仮にA、B、C医院とする。

 

A医院は、主治医の病院の近辺にあり、通いやすいのではということで最初に主治医から紹介してもらった。

病院が運営しているリワークは、その病院の方針によって大きく内容が違うらしい。

このA医院は、グループで絵を描いたりとか、芸術系なプログラムが多かった。

ただ、見学といっても、実際のワーク内容は見せてもらえず、講師の方から一日のタイムスケジュールや、実際通うまでの流れなどの説明を受けただけだった。

私がA医院を敬遠したのは、デイナイトケアのみだという点と、食事に関しての二点。

前述したデイケアはこの医院では行っておらず、デイナイトケアという、朝~夜までのプログラムしかなかった。

また食事は、決められた時間に全員で一部屋で取らなければならず、早く食べ終わっても帰宅が許されないという決まりになっていた。

この当時は料理にかなりはまっていたので、夜に料理を作れなくなるのはなあ、というのと、普通の会社でも、食事までは全員で取ることを強制はされないだろうし、復職に向けての行動でそこまでは…と考えて、辞退させていただいた。

 

2つ目のB医院は、デイケアを実施していたので、帰宅してから料理が作れるというのがまずよかった。

また、スパルタ気質な雰囲気で、ばしばし鍛えるというのをウリにしていた。うちは復職前にダウンする人もたくさんいる、そのぶん復職の際にはとても自信がつくよ、とおっしゃっていた記憶がある。

私は、「自分は周りに比べて甘えている」という考えを持って育ってきており、「周りより苦しい思いをしないといけない」「そうしないと、周りと同じ土俵には立てない」という考えに昔から縛られていて、このスパルタ気質はかなり私に魅力的に感じた。

実は、行くのはこのB医院にしようと思っていた。

が、C医院の見学がこのB医院の3週間後以降とかしか取れなくて、B医院に連絡するのはとりあえずC医院の見学が終わってからにしようと思い、一度保留させてもらった。

 

C医院は、初めて実際のリワークプログラム内容を見ることができた医院だった。

思っていたより、ずっと雰囲気は柔らかいと思った。復職に向けて勉強する施設ということで、もっとお堅い場所なのかと勝手に想像していた。初音ミクの話があがったのを、すごく鮮明に覚えている。

スポ根、規律重視な感じのB医院とは対照的で、前述した自分の思考もあり、見学後もやっぱりB医院にしようかなと思っていた。

 

それで、B医院に連絡したのだが、必ず掛け直しますという連絡の後、すっぽかされてしまった。

 

で、消去法のような感じで、今はC医院に通っている。

でも今は、後述する理由もあって、C医院にしてよかったなと思っている。

 

リワークでの内容

この医院のプログラム内容は、新聞要約・発表、認知行動療法で自己分析、ディベート的なグループワーク、医療療法などを行う。

 

認知行動療法とは、「なにかの出来事に対して、自分がどう考えたか」のプロセスを追って、自己分析して、自分を受けて入れていく治療法のこと。

 

たとえば私はリワークに行き始めた時、「行くからには何かを学びとらないといけない」「もう失敗はできない」という思いを抱いていた。

で、何度か行くのが嫌になってしまった時期がある。これらの考えに縛られてしまい、「今日はちょっとグループワークで発言できなかった」といった日に、ものすごく落ち込んでしまう。

「自分はこうすべき。しないといけない」「満点でなければならない。ちょっとできない、は許されない」これらを、認知行動療法では、それぞれ「べき思考」「白黒思考(完璧主義)」と呼ぶ。

出来事に対して人それぞれの色んな考え方があって、私はこれらの思考のくせが強いのだということが自覚できた。

自分という、ブラックボックス化されているシステムの解析みたいな感じだと私は思っている。

mh.cbtjp.net

私は、前の日記で書いたように、周りの期待に応えたい理想の自分と、応えられない現実の自分の間に大きなギャップがあった。成長していくたびに、どんどんそれが大きくなった。

そうやって自分の内面に立ち向かうんではなくて、その嫌な自分の部分も受け入れてやろう、というのが認知行動療法の目的なのかなと思っている。

 

最後に

自分の苦手な事や弱みなどを、笑い話のような感じで、周りに話せる人に、私は昔から漠然とあこがれていた。

私が同じようにやろうとすると、妙に深刻になったりだとか、ネガティブに火がついて止まらなくなったりする。

年上の人達はみな、そうやって完成されている凄い存在なんだ。それに比べて自分はなんて駄目なんだ。もっと努力しないといけない、という考え方をばねにして、25年間努力してきた。

 

リワークに通って、まず感じたのは、大人だって、弱い部分を持っているのだということ。当たり前のことだが、今まで私は気付かなかった。

盲目的に、年上の人たちは凄い、自分は駄目だ、というのを刷り込んで成長してきたためだった。

そして、そんな大人の方々が、認知行動療法で自分を受け入れつつあるのを見て、こう思った。

 

自分の弱さを受け入れて、自分は弱いのだと周りに言える。それが、本当の強さを持っているということ。

 

そう考えると、今まで自分にとっては手の届かない存在だった年上の人達に、自分もいつか近づけるのではないかなと思えるようになった。考え方は、自分が昔から目指していたものより、ずっとシンプルなのかもしれないって。

そんなの当たり前と言われるかもしれないし、そんなことにも気づかなかったのかと驚かれるかもしれない。実際、気付かなかったからしょうがない。

私にとってまず父親という存在が偉大すぎたというのが根っこにある。自分の中で年上というものを神格化しすぎて育ってきて、やっといま、当たり前のことに気が付くことができた。

 

あと主治医に言われたことで、なるほどと思ったことがある。

「けがで休んだり休まなかったりして、たまにホームランを打つ選手と、目立った活躍はしなくても、ずっとベンチにいる選手。普通の会社で多くの場合大事にされるのは、ベンチの選手なんだよ」という言葉。

私は野球観戦が好きなので、この例えははっとなった。

一打席にすべてをかけて、ホームランを狙おうとして、失敗して激しく落ち込むのではなく、今は自分は会社やリワークに来るだけでいいんだ、と思おうという心構え。

もちろん、会社員である以上、「給料に見合った仕事」という考えはついて回ると思う。それを前提にして、自分にも相手にも「過度な期待」はしない考えはありかな、ということを考えている。

 

私も、実際にいま働いているわけではないから、就業中の方々から見れば、抜けたことを言いやがってと思われるかもしれない。

でも、それが私だ。人に色んな過去があって、色んな考えがあるように、私も今までの生い立ちがあったうえで、こう考えているのは紛れもない事実だ。

 

これから考えていくべきことはたくさんある。

しかし時間もたくさんある。焦らずに、一つ一つ向き合っていければいいなと思う。

先日Twitterにて書いた症状について。離人症とは。

先日Twitterで、気になる症状についてのツイートをした。その診察結果の報告をしたく、この日記を書いた。



発症した症状

先日、グループワーク中に、話し相手の言葉が全く理解できなくなる症状が発生した。
自分の意識がふわっと外に置かれてしまい、全く言葉を拾えないから、自分に「集中しろ!」と言い聞かせるんだけど、頭が真っ白で制御不能になるイメージ。

休職直前らへんは特によく起きてたと思う。
昔からだと、中高大学とまあまあ起きてたけど、おかしいと言われるのが怖くてそういう症状は人に言えなかった。

離人症と発症時の弊害

症状は離人症というらしい。
離人症性障害では、持続的に、あるいは反復的に、自分の体や精神機能から遊離している感覚があり(離人症)、自分の人生を外側から観察しているように感じます。
私の場合、発症すると、真っ白になって何も入ってこない自分を、外側から操縦しようとしてるような感覚だった。
それが起きてから、集中しなきゃって焦るから、周りからだと普通にパニクってたり考え込んでたりしてるだけに見えると思う。
こんな症状現実の定義としてあったのかよって言いたくなる。

雑談ならまだしも、仕事とかで起きるとかなり辛くて、何回も聞き直さなきゃいけない。
聞き直しを3往復くらいしてしまうと、私自身が申し訳なけなく、情けなくなってきて、分かりましたと言ってしまったりもした。
それで後で分かってねえじゃんと怒られたりする。これに関しては本当に申し訳ない。
こうして過度に期待に応えようとする、自分の無意識の修正が必要な事は自覚している。

原因

通常この障害は、生命を脅かすような危険や他の重度のストレスが引き金となります。
その発症したグループワークは、上司と部下のロールプレイであり、自分にとってかなりハードなテーマだった。
ただ同じような経験をなさってデイケアに来ている周りの方々は普通にこなしていて、ラストバッターとして自分が選ばれてしまったのがプレッシャーに拍車をかけてしまった。
復職が近い自分に与えられた試練だと考えて挑みすぎた。

私はPTSD的な、トラウマに触れられかけた時の身体のアラートの出方が酷いと、これとは別に診断されてるので、それと離人症とのコンボ攻撃発動となったケースと思う。
私は過去、トラウマに関連する出来事に対して、戦おうとせずすぐ逃げたり、逃げたことを後でずっと言われてきたりした。実家や中高が主。
その、辛い現実から逃げてきたという過去が、強いストレスに対していまの自分を守る一つの技として、この症状によるストレスからの逃避をさせてるのかなと自己分析してる。
どんだけ無意識下で自分の知らないシステムが稼働してるんだ。
市販のノートPCで、初期インストールソフトが多く最初から重い的な感じか。こんなソフト知らんし! みたいな。

今後の展望

こんなストレスに対して脆弱で人生やっていけるのかと考えてしまい、近づいてた復職の洞窟の出口の光が遠ざかったような感じにはなってる。
ジョースター家の教えに従って、逆に考えるんだ。ここで自身の課題を見つけたのは、復職してから見つけた時よりも安心だと。復職までの期間に治していけばいいのさ。
あと、薬も処方して貰ったので、お守り的な安心感もある。

フォースと共にあらんことを。

復職に向けた、休職の原因と再発防止策を考える。

現在、休職約一年の私の過ごし方は、平日は朝から夕方までデイケアに通って、家に帰って料理という流れ。

デイケアというのは、うつ病適応障害などで休職・退職した方が、社会復帰に向けてグループワークなどのリハビリ的なことをする、病院などが運営している施設のこと。

通い始めてから3、4ヵ月くらいになる。
会社によっては、デイケアでのリハビリを期間を設けて義務としているところもあるが、うちは特になかった。復職や再発への恐れがあるというのを主治医に相談したところ、ならデイケアはどうだと紹介してもらったかたち。
 
最近はデイケアに行きながら、会社と復職の話を少しづつ進めている。
面談などもこれから行っていくと思うので、以前の日記の内容で、もう少し休職の原因と対策というところに焦点を当てて考えてみたいと思い、この記事を書いた。
デイケアの内容やそこでの自分については、また別の日記で触れたい。
 
休職の原因をいま冷静に考えると、大きく3点あるかなと思った。なお休職までの詳しい流れは以下の記事を参照。


休職にいたった3つの原因

  • 相性の悪いAさんと2人で進める、周りとほぼ独立した仕事だったという点。
  • AさんとプロジェクトリーダーのBさんが2人で話を進めることへの不信感。
  • できないと思ったことでもとりあえずやってみる(できない事を「できない」と言えない)という自分の姿勢。
 

周りと独立した仕事による孤独感

一点目に関しては、助けを求める事ができる相手を見つけられなかったということ。
プロジェクトメンバーの中でも担当する分野が異なるため、前提条件などをよく理解していないといけない自分の質問に答えられる相手が、AさんとプロジェクトリーダーのBさんしかいなかった。
教育担当者はAさんであるため、Aさんを飛ばしてBさんに伺う訳にもいかず*1、Aさん以外の元で、煮詰まった仕事を進めるのが現実的に不可能な配置だった。
これが仕事の八方塞がり、そして自分の休職となってしまった大きな原因だと思う。
ただAさんと相性が悪いだけならば、ここまでの事態にはならなかったと思う。
 
対策としては、できない人アピールをしておきつつ、チーム内を観察して、各分野の頼れそうな人をリストアップしておくとかだろうか。
できない人アピールということについては、詳しくは後述。これをやっておかないと、頼りにいっても「できるでしょ」「分かるでしょ」と、アドバイスを必要としない相手と認識されてしまうため。
でも、あんまりにできないのをアピールしてると、話の通じる相手じゃないとみなされて、逆に取り合ってもらえないケースも実際にあったんだよなと書きながら思った…。どうすりゃいいんだろう。
他の方の考え方・実践したやり方などをぜひ伺いたい。
 

自分のいないところで話が進んでいくことへの不信感

二点目に関しては、例えば喫煙所があげられる。なお私は喫煙せず、AさんとBさんは喫煙者。
私がAさんに報告しに行って、理解を得られず叱責された直後に、AさんとBさんで喫煙所に行ったり、そこら辺の机で話し合いをするなどしてから、私が呼び出されるのが、私にとっては恐怖だった。ネガティブ版パブロフの犬のような感じ。
Aさんの独断ではなく、リーダーなどとの総意のもとで、自分の意見などが否定されているのだという考えが、私自身にショックを与えていた。
 
対策としては「自分のいないところで物事が進んでいくことに対する、不信感・ストレスがあります」というのを、談判するしかないのかなぁ。
私みたいに気にする人は、どうしても気になってしまうし、気にならない人たちは、こうして無意識にやってしまうだろうし。
これに関しても、他の方の意見をぜひ伺いたい。
 

できないことを「できない」と言えない

三点目に関しては、学生時代には通用していたが、働き始めてからは通用しないと思わされた考え方のひとつ。
当時私は、若手社員には方向だけ示してから自由にやらせてみて、行き詰まったら経験者がフォローしてあげ、成長させるというやり方が、チームの在り方かなと何となく思っていた。
そのため、自分自身をこのフローに当てはめ、割と自由にやってみてから結果を報告していたのだが、そのたびに「違う」と言われていた。
何が違うのかが分からないため、全部やり直してみたら*2、「そこまでやれとは言ってない」とあきれられる。*3
 
おそらく、Aさんは私を若手社員としてではなく、一人の技術者として接していたように思う。
私の考えている自分自身の立ち位置と、Aさんの考えている私の立ち位置にずれがある場合、どういう事態を招くかという例。
人間関係の最初にこのギャップが発生して、それが続いて半年ほど経過してしまうと軌道修正が行えなくなる。後から「できない」「分からない」と言っても、「できるだろ」「分かるだろ」と言われ、堂々巡りの末、「時間の無駄」「給料に見合った仕事をできてない」という魔法のことばで強制会話終了。
自分のできないことを「できない」と素直に表現できることは立派な能力の一つ。
今後復職した後は、これを意識する心の余裕をもって仕事ができたらいいなと思う。
 
私が「できない」と言えないのは、今まで自分の劣等感と向き合ってそれを受け入れる機会がないまま社会に出てしまったためだと思う。
自分の認めたくない事実から逃避するために、がむしゃらに頑張ってきたが、そのやり方が通用しないケースにこうして始めてぶちあたった。
いま、こうして文字に起こせるのは、できない自分を受け入れられているからかも。昔なら言えなかったかなと思う。
ごちゃごちゃしてきたので、この「できない」を言える強さについてはまた別の記事で書きたい。
 

最後に

先日、大学の研究室でお世話になった先輩と、こんな感じのことをテーマにした話をする機会があった。
その先輩の体験談なども伺えて、とてもありがたかったので、感謝の意味も込めて、こうして自分なりのいまの考え方をまとめてみました。

*1:実際に飛ばしてBさんに聞きに行っていた時期もあったが、飛ばすのは配置の関係上やめろとBさんに諭された

*2:ちなみに、ここで何が違うんですかと聞くと、「全部」と言われる。ワロタ

*3:そして二点目で述べたように、AさんとリーダーBさんとで喫煙所に行き、数分後2人がやってきて、私に対する説教が始まり、「このやり取りの時間が無駄」と最後は言い捨てられて2人ともいなくなる。ワロタ

平成生まれの私が見てきたインターネットの世界。

以下の記事を読んで、自分も子供の頃からのインターネットの思い出を書いてみたくなった。

なのでタイトルは、あえて同じにしました。

 

PCとの出会い

小学校中学年の頃に、親父から突然ローマ字練習用シートのようなものを渡され「これからの世の中ではパソコンが必要になってくる。できるようになれ」と言われたのを覚えている。
当時、小学校では周りでPCを扱える子供はほとんどおらず、私は自分だけできるのが嬉しくて、どんどんPCにのめり込んでいった。
タイピングがある程度できるようになって、自由にPCを触らせてもらえるようになった。実家のPCのOSはWindowsだったので、最初はもっぱらゲームばかりやっていた。マインスイーパソリティアに、今は無きベスト電器とかで安いゲームを買って貰って、インストールしてプレイしていた。
中でも2000年に出た、特に2つのソフトウェアが私を夢中にさせた。
 

ホームページビルダー、RPGツクール

日本IBMのホームページビルダー2000と、ASCIIのRPGツクール2000だった。
ホームページビルダーは、HTMLを知らなくてもまあまあなウェブサイトを作れるのがウリ*1で、うちの家族の紹介サイトみたいなのを作ってた。*2
ただ、親父からの、ああしたらどうだこうしたらどうだの口出しが疎ましくなってきて、それから逃れられるRPGツクールの方に移っていった。
 
RPGツクール2000は、おそらくツクールシリーズの中でも、最高の栄華を築いたソフト。
当時のASCIIは公式サイトでコンパク*3というコンテストを毎月実施していた。これは、ユーザーの作ったゲームを審査員がプレイしてレビューしてくれ、上位のゲームは表彰されて、ダウンロード可能となるもの。これにより、ツクラー*4間でのモチベーションの相互維持がなされていた。
しかし、ゲーム制作ツールと言ってもかなりの曲者で、変数操作や条件分岐、乱数などの考え方を理解していなければ、一般的なゲームを作るのは困難だった。今考えれば、ここで変数などのプログラミングの基礎の考え方に触れる事ができたのはよかったと思う。
私は結局コンパクには投稿できず、何10作とチャレンジしてできたのは1作だけだった。しかも、ストーリーはドラクエから流用で、その内部処理をツクールでトレースしたクローンゲーム。表現の難しさを子供ながらに思い知らされてしまった。
 

MIDIカービィくらぶ

創作系以外では、引用記事と同じく、私も個人サイトにアップされているゲーム音楽のアレンジを聴くのに熱中していた。
当時はネット回線の貧弱さゆえ、MP3の配布はかなり時間を食ってしまっていた。そんな中、ネット上で流行していたのが、PCの内蔵音源で再生するMIDIファイルだった。
その性質上、音源の種類によって音楽の表現が全く変わってくるのが面白い。Microsoft GS音源からYAMAHA XG音源に変えた時の衝撃は忘れられない。
 
また当時はTwitterやブログといった、ネットで人が集まる場所がまだなく*5カービィくらぶという個人運営のサイトによくお邪魔していた。
このカビくらの管理人が、今はJRAでジョッキー(騎手)をやっているのを知り、とても驚いた。
当時のネット世界で尊敬していた人が、自分がこうして大人になった時、夢の舞台で働いているとは、すごい。
 

中高のネトゲブーム

中高生の頃は、ネット回線の高速化と共に、オンラインゲームが流行し始めた。
私は、PHIとか、NEXONメイプルストーリーとかをやっていた。
この頃は前の日記で書いたように、いじめられていて、PHIではその相手もプレイヤーだったため、ゲーム内でもしんどかった。
そこまで嫌いな相手なのに、完全に拒絶まではできないのが、私の考え方のおかしなところであり、そうしてしまう駄目な自分、という劣等感を自ら感じてしまっていた。
これについてはまた別にテーマとして書きたい。
 
メイプルストーリーは、私が今まで課金したゲームの2つのうち1つ。*6
親から貰ったお小遣いを課金してしまったという罪悪感と、直後にすぐ飽きてしまったという申し訳なさを感じた。
これ以来、課金が後ろめたいもののように感じ、どうもスマホゲームなどに抵抗ができてしまった。コンシューマ機のソフトダウンロード販売や、DLCも、あまり好きではない。
この罪悪感と、自分で決めた道すら貫けないという事実が劣等感に結びついてしまってる。
中高生の頃のゲームには、あまりいい思い出がなかった。こういうことも、書くことで何か発散できればなと思う。
 

初音ミクとの出会い

周りが大学受験真っ盛りの頃、私は涼宮ハルヒというアニメにどハマリして1年ほどが経過していた。
そこから、自然とニコニコ動画にも夢中になった。
そんな中で、ランキングのある動画を再生する。オリジナルの動画は非公開設定になってしまっているので、他の方が再うpした版。

初音ミクという新しい歌手が、当時流行りのキャラソンをカバーしたのだと最初は思った。
調べてみると、どうやら違う。初音ミクというソフトにメロディを打ち込んで歌わせている、というのを理解するのに時間がかかった。リアルな声だなぁと感心した。
更に、その数日後に見た動画で更なる衝撃を受ける。

まずかわいすぎる。
さらに凄いところは「音源である初音ミクの視点からの、ユーザーから歌わせてもらう喜び」を歌詞として歌わせている点。
私があなたのもとに来た日を
どうかどうか 忘れないでいて欲しいよ
私のこと 見つめるあなたが嬉しそうだから
ちょっぴり恥ずかしいけど 歌を歌うよ
この着眼点は当時でもかなり斬新なものだった。まだ、調教*7という言葉がなかった頃だった。
ここを起点として、ミクを単なるツールではなく、キャラクターとしての設定がユーザー側でなされていき、ネギをもたせたり、はちゅねになったりという文化が生まれた。
このものづくりの楽しさの象徴のようなミクと、OSTER Projectという作曲者にどっぷり引き込まれていった。
 
それから6年後、私は大学と入社を経たころ、初音ミクがうちの自作PCにもやってきた。メドレーを歌わせて、動画も作り、ニコ動にアップした時の達成感はたまらなかった。
 

最後に

進学などで自分の世界が拡がると同時に、ネット世界がどんどん拡がっていった。私の人格形成において、ネットはかかせないものであったと書いて思った。

私は、ネット世界の中に、表現面で自分を導いてくれる人を見出して、その人を目指して自分もものを作るというのを続けてきたタイプだった。

最近、絵を描いてない。こうして色々作るのに挑戦してきたのを振り返ってみて、久しぶりにやりたいと思った。

*1:なおページのソースは、ビルダーで作ったと一発で分かるほど汚い

*2:当時の個人ホームページで、こういう系統のはネット上に多かった。今考えれば信じられないことだ。まだリテラシーとかが普及に追いついてなくて、ネットがのんびりしてた頃

*3:インターネットコンテストパークの略称

*4:ツクールでゲームを作る人

*5:2chはあったが、今よりもアングラ感が強くて近づきづらかったような気がする

*6:もう1つはモバマス

*7:ミクの歌声が自然になるよう、ソフトウェアのパラメータなどを調整すること