自己分析のためにSTAR WARSを語る。
"A short time ago, in a movie theater far, far off..."
(つい最近、わりと近くの映画館で…)
昨年末にスター・ウォーズ エピソード7(以下、EP7)が公開された。
スター・ウォーズの名前を日常生活でまたよく聞くようになって、嬉しい。私は9歳からファンボーイズ*1だった。
私が幼稚園のころ、スター・ウォーズはまだEP4~6(以下、旧三部作)*2までしか公開されていなかった。父親からこれらを見せられたが、当時は古いSF映画という印象しかなかった。スター・ウォーズを知ってる学校の友達がいなかったというのが大きい。ライトセーバー*3かっこいい、R2-D2*4とイウォーク*5がかわいい、くらいに思っていた。
1999年、私が9歳のとき、EP1が公開された。博多のキャナルシティ*6という映画館で、見た後の衝撃は今でも覚えている。
ここで、一気にスター・ウォーズに引き込まれた。
今まで作られてきた世界観に、最新のCGで描かれるロボット・戦闘機のかっこよさ、惑星の風景の美しさが、更なる厚みを与えてくれた。
中でも、旧三部作では銀河で数人しかおらず壊滅寸前だった、ジェダイ騎士団*7の全盛期を全く新しいデザインで描き、のちに続くEP3まで貫き通したのが、とてもよかったと思う。
EP1は、ファンの間でも批判されることが多く、特にEP7が公開されたばかりの最近では、スター・ウォーズの話題が上がるたびに、いったい今までどこに潜んでいたのか分からないようなファンから、駄作として槍玉にあげられる。「ナブー*8やグンガンシティー*9などが今までと比較して浮きすぎている」「ジャージャービンクス*10が嫌い」「建物などが綺麗すぎる。スター・ウォーズはもっと汚くあるべき」など。世界観が受け入れられない、というのが批判の多くを占めるように感じる。
私の思うのは、既存の世界観にとらわれすぎず、批判を恐れずに、新しいところへ踏み込んでいったのが、素晴らしい映画だったということ。
この思想こそ、芸術でも、仕事でも、料理でも、何かを表現して生きていく上で、一番大切な事のように思う。
その後、中学に入学した年の12歳でEP2が公開、高校に入学した年の15歳でEP3が公開と、自分にとっての世界が大きく変わるその変わり目ごとに、新しいスター・ウォーズと接することが出来た。こんな多感な時期にスター・ウォーズと共にあれたのは、ファンボーイズとして誇っていくべきことだと思う。
大学では、スター・ウォーズを語れる友人と接することができ、やっぱりすごい映画だよな、という思いを自分の中で醸造することができた。
そしていま、人生初の休職を経験している中で、EP7は公開された。常に自分のそばにスター・ウォーズがあるのかもしれない。
EP1~EP3(以下、新三部作)の主人公、アナキン・スカイウォーカーは、強すぎる戦士だったが、自分を取り巻く権力に翻弄され、一つの選択から世界を破滅に追い込んでしまう。その濁流のような人生の中で、最期には息子を通して自分を見つめ直し、闇と立ち向かった。
何となく、考えさせられるかも。
シリーズを通して言われる台詞で、
"May the Force be with you"
(フォースと共にあらんことを)
というのがある。
もとは旧三部作の主人公の所属する軍隊の敬礼のようなものとして軽く登場したが、新三部作の全盛期ジェダイ騎士団の挨拶だったことがシリーズを経て明らかになった。このため、新三部作では登場人物がしょっちゅう口にする。さすがジェダイの総本山。
ジェダイという強靭な戦士たちでも、精神的支柱として、フォースが常に共にあることを感じて、立ちむかっていられているんだ。私にとっては、勇気が湧いてくる言葉の一つ。
スター・ウォーズについては場所があればまだまだ語りたい。
読んでいただき、ありがとうございました。
*1:スター・ウォーズファンの人々。同名の映画があり、EP1公開を楽しみにしたスター・ウォーズファンたちが繰り広げるコメディ映画。ファンはにやりとするパロディ満載
*2:なお映画の公開順は、EP4→EP5→EP6→EP1→EP2→EP3→EP7。劇中での歴史と異なる公開順であるのは、描写しなければならない世界が、その当時の技術では不可能と判断されたため。つまり技術の成熟まで、1983年公開のEP6から1999年公開のEP1まで、16年ものの時が必要だった
*3:劇中に出てくるプラズマの剣。強い兵器というより、格式高い、古臭い、神聖な武器として描かれるのがポイント
*4:現在、全エピソードに登場するロボット。電子音が萌え要素
*5:EP6に登場。惑星エンドアのテディベアみたいな原住民
*6:家から車で片道2時間くらいかかる。田舎は大変だ!
*7:シリーズを通して、物語の主役となる集団。フォースと呼ばれる超能力を操り、銀河の平和維持に努めている。EP6では、描写されている限り銀河で残り2人というありさまだったが、EP1ではジェダイ評議会やジェダイ聖堂など、凄まじい力をもった集団であったことが明らかになった。なぜそこまで凋落したのか、その描写の期待に応えきったEP3は凄い!
*8:EP1の主な舞台の一つである惑星。きらびやかな宮殿のある緑豊かな星。旧三部作には登場しなかったタイプの世界だった
*9:ナブーにある水中都市。グンガン族という原住民が住む。ナブーの人とグンガン族は仲はそんなに良くなかった。しかし外敵との戦争が起き、そこからどうするかというのがEP1のストーリーの注目点の1つ
*10:グンガン族だが上司への態度でグンガンシティーを追放されたおまぬけキャラ。私は好きです。なごみます
自分の強みを知る。Positive Phycologyテスト。
自分の強みを客観的に知るにあたって、Positive Phycologyの研究として米ペンシルベニア大学が実施しているテストが面白かった。
240問の質問に答えると、24個ある強みを、自分がより多く持つ順にランク付けしてくれるというもの。質問数は相当あるので、30分~1時間ほどの暇がある時にやってみるのがいい。
サイト右上のSelect Languageから、日本語を選ぶ事も可能。これでテストの質問が日本語になる。
なお研究用のアンケートを兼ねてか、サイトに登録しないとテストは行えない。Education Level(最終学歴)やOccupation(職業)、Zip(郵便番号)など必須入力項目はちょっと多いが、適当でいいと思う。
「測定テスト」タブの、「強みに関する調査票 (VIA)」が、私が今回行ったもの。
私のTop5は、
- 審美眼
- チームへの忠誠心
- 親切心
- 愛情・友情
- 好奇心
だった。
このテストを面白いと思った点は、回答している時に「これは高くなるだろうな」と想定したものが、案外低く出て、逆に思いもよらない項目が強みとして出てきたこと。
回答しているときは、「相手を笑わせるのが好きだ」系統の質問に多くYESをつけたように感じ、結果は「ユーモア」の項目が高く出るだろうな~、とたかをくくっていた。が、ふたを開けてみれば、親切心や友情が高い。
私はこの結果を、自分にとっての「ユーモア」は「相手を楽しませたい」より、「相手と仲良くなりたい」を根源として湧いているものと解釈した。確かに心当たりはある、またそれを見抜かれてるなと感心した。
また、やはりもっとも面食らったのは、ナンバーワンとして出た「審美眼」。
強みの説明としては「日常のあらゆる出来事に、自然・芸術・数学・科学などを見出して、美しいものや優れたものに感動できる」的なところ。
いやいやまたまたw と最初は思ったが、心当たりはあるかも。
確かに、私はささいなことで心を揺さぶられるほうかなと自覚している。嬉しいことでも、悲しいことでも、必要以上に心が波立つ。それによって集中できることもあれば、集中力が乱されることもある。
その瞬間の発想としては、ここでこういうものを取り入れたら、もっと面白くなるかも! とか。また悪いパターンでは、これができない自分は全てにおいて駄目だ、とか。
そのようにノイズだらけの日常生活の中から、ささいな情報を流出して、心が揺さぶられる=感動できるのは、誰でもできるわけではない、一つの強みであるのかもしれない。
こうしてテストの結果として客観的に明示されると、勇気がわいてくる。
私のTop5を、それぞれの解説文を合わせてまとめてみた。
「日常生活の中で、美しいものや優れたものに気づけ、探検や発見をすることを心より楽しむ。人と親密になることに価値を置き、何かをしてあげることに喜びを見出し、チームの成功の為に一生懸命働く」
今の私にとっての「真の強さを持った人」は、自分の弱さと向き合える人。
それとは別に、こうして自分の強みを、強みだ、とちゃんと胸を張れるのも、強さの一種かなと思った。それを実感できたという点で、私にとっては価値のあるテストだった。
ちなみに、質問は日本語だが、結果はなぜか容赦なく英語で出てくる。
対応訳は、以下のブログを参考にするのがおすすめです。
ありがとうございます。
【VIA-IS】24の強み 全文日本語訳 | パパは魔法使い
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
他にテストを受けた方がいたら、ぜひ結果をうかがいたいです。
休職1年くらいの自分が、自己分析のために何となくまとめてみた。
私は2015年2月に抑うつ状態*1と診断されて、それから休職を続けている。
原因は、2014年4月頃(入社3年目)からの、仕事内容にある。
仕事は無線機器の受信部の、新方式の研究だった。
仕事は、私以外に勤務10年超で役職につく一歩手前の、Aさんと一緒に進める、ということだった。
プロジェクト発足当初はAさんは助っ人として別チームにいたため、合流は2014年の夏ごろになった。
私にとって、Aさんは苦手な部類の方だった。
理由は、はっきりとものを言い、いやな事を自分の内に留めておかないためだ。
私はこのタイプの方を、この文章を書いている今でも苦手としている。
私は他人からの指摘などを、おそらく正面から受け止めすぎる性格であるため、
話していて苛烈な言葉がまず襲いかかってくる、このタイプの方と話すときは、無意識的に自分を縛って、抑え込むことで、自分を守りながら接してしまう。
そのため会話の終わった後は、すごく疲れる。また話したいとは到底思えないほどに。
休職して1年経った今も、正直言って私はこのタイプの方との関わり方が分からない。
私の過去の苦しい経験には、いつもこのタイプとの関わりがあった。
話は私の過去にさかのぼる。
私は、中高の学生時代、いじめを受けていた。
少なくとも、今は、私はいじめられていたと感じる。
内容としては、お金を渡したり、他の学生の前で何かするよう強要されて、恥をかかされたりなど。
いじめられていた当時は、いじめられてるという自覚はなかった。
友達がちょっと強い言葉で自分に言ってきている程度だと、感じていた。
普通のことだと。我慢すればいいと。
つまり無意識的に自分を抑え込んでいた。
実家も、私にとって安全な場所ではなかった。
親は、私に期待し、いろいろな面で投資してくれた。それは感謝すべきことだ。
だが、いまは私の趣味と胸を張って言えるもの、
つまりイラストを見たり描いたりや、プラモデルの製作や、
PCを使った作業(当時はHTMLでのホームページ作成や、ツールを用いたゲーム作成など)に関しては、ものすごく否定されてきた。
面白いと思った漫画を不健全だと勝手に捨てられたり、イラストを気持ち悪いと言われたり、
PCの作業中はあからさまに不機嫌になったり、プラモデルの撮影を鼻で笑われたり。
趣味というカンバスで、自分を自由に表現した結果を否定されるのは、ものすごく屈辱だった。
実家にいる間は、とにかく自分を出さないようにした。
喜怒哀楽を見せない様にして、あんたらとは距離を置いているんだということをアピールした。
距離を置くことで、自分の表現物の否定に対するダメージを軽減できることに気付いたからだろう。
まあ今思えば、私のそんな対応が、親の私への否定をよりエスカレートさせていたのも事実なのかもしれない。
弟も、そんな親と同調していたので、
私を含めて4人いる実家では完全に浮いた存在となり、自分でもその道を選んでいた。
ただ、大学進学と同時に上京したので、この地獄からは物理的に解放されることができた。
弟は、美大に進み、いまはデザイナーを目指して留学している。
私にとっては、表現物で勝負できる世界に身を置いている弟は、
必然的に比較する身近な存在で、いまは遠い憧れとなってしまった。
自分も、実家にいるときに、
もっと自己表現すればよかったのか?
自分の生き方が間違っていたのか?
今でも自分と比較して思う。
弟に罪はない。けれど私は弟と対応するとき、いつもどこかで誰かが自分を見てあざけ笑うような、
劣等感と向き合わなければならないのが現実だ。
私はこのように、苦手なタイプと接する機会があったのに、
常に自分を抑圧することで自分を守る道を選んできた。それ以外の対処を知らなかった。
立ち向かっていって、知るべきだったのだろうか。
仕事に話は戻る。
やがてAさんと合流して仕事を進めることとなったが、
私は当時自信にあふれており、私に強い口調で指示を言ってくるAさんを、苦手なタイプだと無意識に判断し、拒絶して、
仕事を進めていこうと思っていた。
大学や、入社後にも困難な課題は乗り越えてきたし、自分は現在進行形で進化している。絶対にできると。
それが若い自分に期待されている、このプロジェクトにおける役割だと、
そう考えるくらいに自信家だった。
それから半年ほどたち、私の担当の仕事は破たんした。
理由はありすぎて、どうすればよかったか、いまこうしてまとめることもできない。
まず、私が提出する結果はすべてAさんに蹴られてしまった。
毎日のように結果を提出しては、容赦なく論破されて席に戻り、またやり直して・・・という日々だった。
自分の説明する能力や、知識が足りないためだと思い、
社内でも2、3割ほどしかとってない?無線機の資格*2も勉強しまくって取得した。
しかし何も変わらない。
Aさんとの関係がうまくいっていないためか、という考えにもたどり着いた。
そこで仕事以外の場所で勝負してみようと思い、飲みというかたちで、距離を縮めようとする方法も試した。
しかし何も変わらない。
2014年の忘年会で、Aさんを含め、プロジェクトリーダーのBさんと飲む機会があり、
そこで、Bさんからは「Aに嫌われることだけはするなよ」と言われた。
これだけやって、まだ足りないのかと吐き気のするような絶望と、
視界が遠のいてく感じを味わったのは今でも思い出せる。
その日は溺れるほど飲んで、どうやって帰ったか記憶がない。
2015年の年明けごろには、
仕事の無い日も涙が止まらなかった。
仕事の成果とかお金とかより、Aさんに認めてもらいたいということだけしか頭になかった。
自分にとってできうる、あらゆる人にアドバイスを求めた。
会社の同期、先輩たち、大学の友人、自分にとって頼りづらかった親、弟にも。
仕事への集中力がなくなり、リーダーであるBさんに、
プロジェクトから外して欲しいと相談した。
「周りへの迷惑を考えてくれ」
「そういう態度では、どこにいっても同じ目に合う」
「部署移動となると、最低でも1年後」
と言われた。
まあ、そうか。という気持ちだった。
ここで言われた、『そういう態度』というのが、何を意味しているのか、当時も分からなかったし、今も書いていて正直分からない。
この時期は、なんだか自分をラジコンで操作して毎日会社に行ってるような感じだった。
自分を俯瞰して操作していて、視界とかも自分のものではないような。
朝起きて、あー体動かねーわ、受信機の調子わるいな、みたいな。
2015年2月、完全に万策尽きた。
生まれて初めて精神科を受診し、「抑うつ状態」の診断書をそのまま提出。
私が小学生のころ、おじさんがうつになり、そのまま亡くなった事があって、家族の中や、私の中でも精神病はタブーなものだった。
絶対になりたくないと思ってやってきた。
でも、最後はあっけないものだった。
そして休職に入った。
以上、休職にいたるまでの経緯と、自分の封印してきた無意識について述べた。
これを書いたのは、自分の「無意識」が怖くなってきたためだ。
あなたは自我防衛機制が強いタイプ、
という当たってるのかもよく分からないような性格診断的なものを受けて、
自分は不快感とかを表に出さずに抑圧しがちなタイプで、周りとの協調性がない、
とか書いてあって、
自分を無意識的に抑圧する、そんな処世術がなじみすぎているのかもと、だんだん恐怖にかられてきた。
自分の見て感じているあらゆるものが、
この無意識によって歪められて認知している。
こいつ、協調性がないな、
とか苦手な人を見て思っていた自分が、
一番協調性のない人間なんじゃないか?
この無意識に気付いたのも大きな一歩だと思う。
が、不安感が拭い去れないのも事実。
それで一心不乱にこの文章を書いた。
ここまで見ていただき、本当にありがとうございました。